二日連続うれしいニュース

山本昌投手が、通算200勝達成です!しかも完投勝利!まだまだいけます。

http://www.chunichi.co.jp/chuspo/article/dragons/news/200808/CK2008080502000090.html

おめでとう、山本昌投手! 中日に入団していきなり絶望のふちに立ちながら、多くの人との出会いを機に、勝ち星を200勝まで積み上げた。プロ25年目、間もなく43歳になる遅咲き左腕が、プロ野球史上最年長の完投勝利で、日本球界最後の200勝投手になるかもしれない偉業達成。しかも中日球団創設9000試合目の記念すべき試合に、杉下氏以来半世紀ぶりの200勝で花を添えた。

 歴史を刻んだ瞬間を、天国の恩師はどんな思いで見届けただろう。山本昌が笑う。仲間たちが叫ぶ。落合監督には手荒い握手で迎えられた。四半世紀をかけて築いた200勝に、“あの人”は労をねぎらうのだろうか。それとも活を入れるのだろうか。まだまだ通過点ではないか、と−。

 逆境に立たされてからが山本昌の真骨頂。この夜は、そんな野球人生を象徴した。1球ごとにボルテージが上がる異様な空気の中、先制点こそ失ったものの2回以降は無失点。丁寧さと大胆さを兼ね備えた投球で4安打の完投勝ち、粘り強さが味方の大逆転を呼び込んだ。

 運命の出会いがなければ大記録もなかった。挫折のたびに恩人に恵まれた山本昌が、とりわけ感謝しているのがアイク生原氏(元米大リーグ・ドジャース会長補佐)だろう。0勝のまま、戦力外も同然で中日から米国留学を命じられた88年。ドジャース傘下へ送り込まれた際に同氏が世話役だったのは有名な話だ。

 「ふて腐れて日本から来たぼくを、アイクが熱意と人柄で“野球が楽しい”と思わせてくれた。でもね、一緒に晩飯を食べたのは登板日くらい。スコアブックのコピーにコメントが書き添えられたものを送ってくれたり、当時から会話の多くが手紙だった」

 言葉数は少なくても、基本にうるさい人だった。低めに投げろ。カーブを磨け。ビールは3本以上飲むな…。当初は若気の至りで聞き流していた山本昌も、いつしか忠実に教えを守っていた。中日の主戦に転じた帰国後も、カーブに磨きをかけた。精度の向上に比例して3度の最多勝沢村賞を獲得。留学中に覚えたスクリューが代名詞と言われがちだが、この日も谷繁が多く要求したスローカーブこそが、アイク氏の見抜いていた山本昌の宝刀だった。

 運命の出会いには、劇的な別れも…。92年8月。奮闘していたシーズン半ばのある日、前年まで中日監督だった星野氏(現北京五輪日本代表監督)の自宅に突然、呼ばれた。

 「アイクは今年いっぱいかもしれない」

 恩師の余命が少ないことを思いがけず知らされた。まだ55歳。信じられなかった。必死の祈りも通じず、同年10月、アイク氏はこの世を去った。この年、山本昌は初めて13勝をマーク。自己最多となった11勝目のウイニングボールは同氏の棺に納められた、という。

 「ずっと手紙でやり取りしてたから、しばらくは亡くなった気がしなかった。連続最多勝のころは“アイクが来てる”って思うと勝てたりしてね。ぼくが200勝するなんて夢にも思ってなかっただろうから、どう思ったかな。一番、見てほしかった」

 山本昌の自宅玄関には、微笑するアイク氏の写真が飾られている。「不思議だよ。笑ってるように見える時があれば、怒ってる時もある」。1勝から200勝、すべてがアイク氏と歩んだ輝かしい軌跡。この夜は、最高の笑顔で迎えてくれたに違いない。